結婚式

友人の結婚式に出た。彼女はわたしとは全然ちがうタイプだけれど、中学時代ほぼ毎日一緒にいた。力が強くて、わたしがからかうとすごいパワーでばしんと叩かれたものだった。そんな彼女がみちがえるように綺麗なドレスを着て、でも終始いつもの笑顔で、新婦さんをやっていた。

以前にもここに書いた気がするが、わたしは家庭というものに対して不信感を抱いており、そのために結婚=おめでたいという感覚が希薄な人間であった。数年前、姉の結婚式に参列した際にはやはりめでたいなという気持ち、結婚っていいな、素敵だなという気持ちなんかは沸き上がってはこず、ただただその異質な空間に馴染まねばと、自我と戦っていたものだった。幸せになってほしいとは願ったけどもね。だから今回もそのとおりになるんだろうなあと思いながらの参列。しかし蓋を開ければ人前式、新婦入場の時点でわたしは泣いていた。

これは成長なのだろうか、いやそうは思いたくない。マジョリティ的価値観に沿っている人間の方が「おとな」なんてのは違う(と信じている)。では心境の変化?それも違う感じがする。わたしのなかでは相変わらず、家庭を作るというのはおそろしいことだ。ならば何か。きっと以前より、自我ばかり見つめずに済んだのだと思う。結婚とはなにか、家庭とは、生活とは、幸せとは何か。そんな思弁はその瞬間存在せず、ただ夕日を見るように泣いていた。こういう瞬間を自分はきっと求めていた。みんなどうやって生きてるの、という常に抱いている問いの、きっとそれが答えだから。そのまんま受け止める、それだけのことなのだ。その後の二次会では自意識が爆発して、また暗示をかけるように酒をあおってしまったのだけど。

 

昨年は鬱をこじらせひたすらグッタリしていた。どうやって過ごしていたかあんまり覚えていないが殺してくださいとはずっと思っていた気がする。いまは病的な強迫観念みたいなものは軽減したし、波はあるがこうしてブログも書ける。今度ほんとうに久しぶりにライブも見に行くよ。生きています。

 

バスとおばさまと私

バスに乗っていた。わたしの前の席には外国人の女の子。通路を挟んだそのとなりにはおばさまaがいるんだけど、この人は通路側に座っている。
そこへおばさまbが乗車してきた。車内後部までやってきたおばさまb、おばさまaを見やると、外国人の女の子に言った。「隣いい?この方、隣に誰も座らせたくないみたいだから」
すかさずおばさまaは反論する、「私は早く降りるからこちら側に座ってるだけですけど。座りたいなら言ってくだされば詰めますけど」おばさまbも返す「ふつうエチケットってものがあるでしょ」。その後もおばさまaは外国人の女の子に、「やな人ねぇ」「ふつうはあなたみたいに窓側に座るよねぇ」とブツクサこぼしている。外国人の女の子は「大丈夫ですヨ~」と無難に返す。
おばさまaの気持ちはわかる。車内は空いているし、近いバス停で降りるならまあ通路側に座ってもいいだろう。第一、わたしより後ろには二席とも空いている席がぽつぽつあるのだ。なのにあんなに嫌みっぽく言わなくてもいいんじゃないの、おばさまbよ。と、わたしは思った。あと外国人の女の子を巻き込んでやるな、スマホゲームやりたそうにしてるから。

ところがだ。おばさまa、一向に降りない。次第に車内は混んでくるが、一度口論した手前か、窓際に詰めることもしない。大きな橋をこえて、道路の車線が増えて、まだまだ降りない。地下鉄への乗り換えのため多くの人が降りるバス停があるのだが、なんとそこでも降りない。さすがにわたしも「ここでも降りねえのかよ!」の心の中でつっこんでしまった。おばさまbもaの方めっちゃ見てる。もうだめだよ、さすがにあんたが悪いよa。
そして、ついにおばさまは降りた。おばさまbの方が。行っちゃうのかよおばb!でも大丈夫、わたしは終点まで乗るから、わたしがaを見届けるから。心の中で勝手にそう約束すると、おばさまbは去っていった。それで結局おばさまaが降りたのは終点から三つ前のバス停だった。いや大嘘つきじゃねえか!一回かばったわたしの気持ちを返してよ。外国人の女の子はわたしと一緒に終点で降りた。わたしは「おばa一向に降りんかったね」と心の中で声をかけた。この気持ちは万国共通だったらいいなと思った。

心の目でおじさんを見る

電車に乗っている。比較的空いている車内、立っている人はほとんどいない。座っているわたしの真正面の座席には、おじさんが座っている。

こういうとき、自分の視線を強く意識する。まっすぐ前を向くと、正面のおじさんを見つめることになってしまい、おじさんを  何?なんかめっちゃ見られてるんだけど  と落ち着かない気持ちにさせてしまうにちがいない。知らない人に見つめられるのは気持ちのいいものではない。余談だが、以前電車内で痴漢されたとき、わたしは唐突に振り向いて目をガン開きにし、終点まで犯人の目だけを凝視し続けてやった。そいつはこちらを気にしないふりをしつつ、しかしその耳は段々真っ赤になっていった。ざまあみろ馬鹿。

閑話休題。まっすぐ前を見るとおじさんに嫌な思いをさせてしまうので、わたしは目を閉じて寝ているふりをする。しかし、その意識はおじさんに向いたまま。まぶたに覆われた瞳で、わたしはおじさんを見つめている。おじさん、知っているか。わたしが実はこんなにもおじさんに意識を向けていることを知っているか。リュックをおひざに乗せたおじさん。細いフレームのメガネのおじさん。こんなに観察されていることに、あなたは気づいていないだろう。

わたしが降りる駅でおじさんも降りた。駅の階段で、わたしとおじさんは別の方向へ歩き出す。名も知らぬおじさん、さよなら。いい一日になるといいね。

 

 

雑記

・同県内の祖父母んちに行ってきた。祖父母はとても善良な人間で、わたしは彼らが大好き。それはさておき、祖父母んちの手前にある家の敷地、の地面に、スプレーみたいので「元お布施横領の家」と書いてある。これが怖くて怖くて仕方ない。ムラ社会の闇をまざまざと見せつけられたことへの怖さと、そこに与しているであろう祖父母の別の顔を想像する怖さ。車に同乗する家族はあの文字に気づいているのだろうか、それを考えては毎回ドキドキしながらそこを通っている。自分がそこのコミュニティに属していたとしても、その家を疎外する空気について、同じように見て見ぬふりをするんだろう。その可能性も怖い。

・文章を書くことができなくなったのを痛感する。以前まがりなりにも一年ブログ書き続けてたのえらかったな。そのころはブログのネタを集めるためにアンテナみたいなものも鋭敏だったと思う。またその感覚を取り戻したくて、いまこうして書いている。オチはない。

・犬の散歩をしたい。四足で歩くふわふわの生き物にひもをつけて、横にならんで歩く。そんな素敵なことがあるか。しかもふわふわの生き物はたまに、でかいのはちゃんとついてきているか、とこちらの顔を確認してくれる。うれしい!たのしい!大好き!ってこれのことだ。犬がいる人はわたしの代わりに散歩の嬉しさを噛み締めてください。

オタクの雑記

アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ というゲームをやっています(通称デレステ)。音ゲーです。200人近いアイドルの女の子たちが登場するので、最初は誰が誰やら覚わるわけあるかい、と思ってたのですが、やってるうちに覚えてきちゃうんですこれが…。自分がズブズブとオタクになっていくのを感じられます。わたしは元々邦楽ロック畑の人間で、これまでアイドルソングなんてほぼ聴くことなくやってきましたが、いざそこに身をおいてみると、素敵な曲がわんさかあるんですね。食わず嫌いはよくないなと反省した次第です。

 

所謂推しの子がこちら。

 

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諸星きらりちゃん

彼女は185㎝ぐらいある巨躯に「にょわ~」「ハピハピ☆」等電波な口調が特徴的なぶっ飛んだ女の子。でも過剰に明るいその姿勢は、大きな体の自分が相手を怖がらせないような気遣いも含まれていたり…と、何とも健気ないい子です。

わたしの同級生で現役アイドルの子がいます。彼女は学生時代部活を全く真面目にやらず、副部長だったわたしにとっていい思い出のある子ではありません。その子が持て囃されてるのをみると「いや裏ではあんな扱いに困る奴だったかんな!」とどうしても思ってしまう。他のアイドルだってそうだと思います、どんなに表でかわいく振る舞ってようが、人間ですから後ろぐらい部分のひとつや二つあるでしょう。それすらも魅力と感じられるようなファンもいるでしょうが、わたしは「かわいさ」に裏があることをどうしても許せないようです。その点、二次元のアイドルです。彼女たちは全部人の手によって作られた存在。性格や振る舞いの全てに人の意志が宿っていて、そこには裏がありません。全部虚構だからこそ、全部が本当と信じられるんです。二次元のそういう性質と、「かわいさ」に対する要求の高さが上手くマッチして、わたしはデレステにはまったのかなあと思いました。

(逆に「二次元ロックバンドプロジェクト」みたいのには「ロックなめんな!!」と思っちゃいます。めんどくせえオタク)

 

バトンと犬の話

 

凪目さん ( id:nohere )からバトンをいただいていました。

hohnoh.hatenablog.com

 

長らく放置していてすみません。いっぱい褒めてもらっててうれピーね。そして凪目さんの最終更新日もかなり前だ

 

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エライ空虚な内容ですがまあ許してください。アンカーで!

 

 

近況。ずっと鬱です。ですが最近じわじわ調子が戻りつつあるかな、ということでこうしてまたブログを開いてみました。また書けるときに書こうかなとはほんとに思ってます。浦島太郎状態ですが…

 

 

 

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最近読んだ本、トラちゃん。動物にまつわるエッセイがいくつも収録されています。その中でも「犬のピーター君の話」というのがえらく心に残っています。

ピーター君は飼い主一家にないがしろにされ、動物好きな隣家(作者一家)になついています。しかし作者一家は少し離れたところに引っ越すことに。するとピーター君は半ば捨てられたようになり、その辺の子どもにオモチャ同然に扱われ、老いて死んでしまうのです。この要約だとあんまり悲壮感がないけども原文はあるんよ。わたしはひどく悲しくなりました。あんまりだ。犬は幸せでなくてはいけません。

ところでこのブログにもたびたび登場したうちの犬ですが、今年の四月に永眠しました。とてもかわいい犬でした。前々から介護をできたし、最後は家族みんなでお葬式もできたし、まずまず幸せな最期にしてあげられたのではないかな、と思います。

死んだ人のことを思い浮かべると、天国でその人の周りに花びらが降り注ぐ、とどこかで聞きました。どちらかというと天国とか信じるタイプではないのですが、この考え方は好きで、ほんとかどうかはさておきそう思うようにしています。わたしは毎日うちの犬のことを思い浮かべるので、犬の周りには花びらが降り積もってることでしょう。ピーター君も同じように――ピーター君の生涯は悲しいものだったかもしれません、でも、群さんがこうして文章にしたことで、それを読んだわたしたちがピーター君のことを思い浮かべ、その度にピーター君のまわりに花びらがそそいでいればいいな、と思いました。

 

 

お久しぶりです

 

みんな調子はどうかな。そこそこ放置してて久々にブログを開いたんだけど、アクセス解析を見てみたら、謎に閲覧数が多い日がぽつぽつとあったよ。更新はせずともだれかが記事を遡って見てくれてたんかなあ、おうち時間の暇潰しになったなら嬉しいです。

 

 

姪っ子がうちに来るときは、決まって「おかあさんといっしょ」か「いないいないばあっ!」の録画を流しています。それにより幼児向けの曲の数々が耳タコ状態なんですけども、それにしても楽曲製作陣が豪華なんです。ヒャダインさんやゆずの北川さん、つんくさんなんかが曲書いてるんですよ。「はみがきじょうずかな」の現バージョン、亀田誠治師匠編曲で歌ってるのはPerfumeですよ。すげ~。それにセットや子どもらの衣装はセンスの塊で見ごたえがあるし、なんと言っても番組のすべてにやさしさが満ちていて素晴らしい。こんなご時世ですが、心がささくれている人は一見の価値有りだと思います。

 

 

最近の刺繍。

 

 

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バンプオブチキンの「R.I.P.」ていうシングルのジャケット写真です。レストインピース。早くすべてが良くなるといいね。

 

書評ではない

 

 

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中村文則先生のエッセイ集 。ゆかいなパートと政治的なパートの寒暖差が激しいけど、それぞれすんごい面白くて一気に全部読んだ。三年前のエッセイで「事実は小説より奇なりなんて嘘だ!カフカ安部公房よりおかしな現実なんてあるもんか!たとえばモリカケ問題が小説だとしたら…いや事実は小説より奇じゃねえか!」というようなのが収録されていたが、この現状の奇っぷりに先生はいまひっくり返っておられることだろう。

中村先生は相当な根暗のようで、わたしはなかなかにシンパシーを感じる。「表面的に明るく過ごしていたがその演技に限界を感じ突如学校へ行けなくなった」「真面目がゆえに精神をすり減らしているのだから真面目をやめるぞ、というエッセイを〆切前にちゃんと書いている自分」…わかる、わかるぞ。そういった根底の部分へのシンパシーを前提として、更に共感を覚えたのが、「雨が嫌い」というエッセイである。

 

 

宇宙に人工衛星を飛ばす時代、なぜ傘だけ進歩がないのだろう?軽い、水を弾く、とか細かい進歩はあるのだが、「手で持って雨を避ける」のは昔からずっと変わらない。

 

 

共感というか以前に全く同じことをブログに書いたことがある。

(シンギュラリティなんて話以前に、未だ自転車の防雨手段がカッパしかないのおかしいだろ  という話です)

中村先生が出した代替案は、透明な巨大コップの中に入るというものだった。これは盲点だった。しかし先生は考える。でもそんなやつは怪しい目で見られるだろう、コップマンなんてあだ名を付けられたりして…。

そして極めつけがこれである。

 

 

でも(中略)ちょっと羨ましさを感じる人もいるのではないか。「コップマン ニコニコお出かけ 楽しそう」と一句詠んでくれる人もいるかもしれない。

 

 

このブログを長いこと見てくれてる人にはわかると思うんですが、これ、かなりわたしじゃないですか?

 

 

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既視感すごくないですか?

 

先生のルーツは太宰とのことで、例に漏れず人間失格を読み「これは俺だ」となったクチとのことである。一方わたしはこのコップマンの句で「これはわたしだ」となった。それでいいのだろうか。いいのだろう。このままの頭で生きてていいんだという希望につながるような、つながらないような

わたしが中村作品に触れたのは、ゼミの後輩が研究していたのがきっかけ。それを思い出してふと買ったこの本で、予想外のシンパシーを感じられたことはとても嬉しい。色々なことが繋がっているなあと思うよ。中村先生は大江健三郎賞も獲っておられます。

 

 

 

 ・折坂悠太さんが昨晩、ライブ配信をしました。

 

 

尺と画質がおかしい。

おうちにいる人はぜひ見てほしい、しびれたし、信用できる表現者だなあと改めて思ったよ。

 

卒業しました

 

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コロナ某のせいでごく簡素な集まりとなったが、無事卒業式を終えた。まあ式典こそなかったものの、学科やサークルのみんなにしっかり会うことができて、悔いのない日になってよかった。楽しかった!

白い四角いのは、ゼミの先生にいただいたお手紙。二つ折を開いた片側には、先生からのメッセージが一文。たった一文なんだけど、あまりに響く言葉をいただいて泣いてしまった。わたしに何が必要なのかとか、わたしのことをしっかり見てくださっていたこととか、そのまなざしの温かさとか、その少ない言葉から伝わってくる。わたしが如何に感動したかをこうしてどれだけ頑張って並べ立てても、シンプルなその一文に敵わない。魔法みたいだ、でも魔法でもなんでもない、詩を専門になさる先生が本当にことばと真摯に向き合ってきたからこそ為せることなのだろう。いただいたこの一文は自分の胸の内だけに、後生大事にしまっておこうとおもう。

もう片側にはロレンスの言葉が。このブログの説明文に「大学生の~」と冠してきたけどもいよいよそれが外れてしまい、かわりの言葉を探していたところだったので、しばらくはこれを置いておくことにする。説明でもなんでもないけど。

 

ブログ開設から一年経ったようです。見てくれてる人、見てくれてた人、どうもありがとう。これからもぼちぼちやっていけたらなあと思います。

 

 

・鼻水が滝のようでおそらく風邪をひいた。薄弱な精神に対して身体は丈夫なのでなかなか体調を崩すことがなく、かえって多少のことでもグエーこんなにしんどいんけと思ってしまう。今まさにそれ。文字打っては鼻かんで、文字打っては顔面握って唸るを繰り返している。そもそも寝たいんだよ早く。でも息苦しくて眠れんのよ。眠れないからブログ開くって確実に間違ってると思うけど、かといってまんじりと過ごすのも嫌だ。手っ取り早く意識を無くしたい。こういうとき家に手刀の達人がいたら助かるね。

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©️HUNTER×HUNTER

 

・先日観たパラサイトの衝撃がかなり強く、こわい映画をもっとみようキャンペーンをおこなっている。最近観た二本。一本はドントブリーズ。金ほしさに盲目の老人の家に侵入するも、その老人は鬼強い退役軍人だった~!みたいな話。もう一本はペットセメタリー。猫を特殊な墓地に埋めたら生き返ったので息子も埋めたらえらいこっちゃ~!みたいな話。どっちも、怖さより「欲をかかなきゃそんなことにならんかったでしょうが!」「学習しろ」「ほら言わんこっちゃない」というのが強かった。うちのDVDプレーヤーで観たからってのもあるのかな、デカいスクリーンで観たらまた違ったかもしれない。もっと震え上がりたい。

 

 

・姉にたのまれ、姪っ子の保育園かばん用に刺繍をした。

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薔薇よ

ピンタレストでみたやつを真似した。よいでしょう。凝ってるように見えてそんな大したことはしてない、よいデザイン。