誇張日記

 

かれは鈍色に沈んだ夜道を歩いていた、なぜならどうしてもドーナツを食べたかったのだ。夜道を歩くこととドーナツ食べたいことに一体どんな相関があるというのか?理由は簡単で、電車に乗ってしまえばドーナツを食べる機会を失うからだ。電車内でドーナツを食べることは物理的には可能だが、かれのモラルがそれを許さない、その場合ドーナツを食べる機会のかわりに失うもののほうが大きいとかれは考えているのだ。だから次の駅まで歩く。かれは夜道を歩いていた。

かれは大人びた格好をしていた。かれは大学四年生で、今日は下級生に各ゼミを紹介する会があった。しっかりした人間に見せようという虚栄心が、服装として発露したのだろう(大人びた格好を大人びた格好だという認識をもってするのは、いささか子供じみてはいるが)。兎に角そんな格好をしたかれが、夜道を歩いていた。

街灯が少なくなってきたところで、かれはリュックからドーナツを取り出した。ミスターでもクリスピー・クリームでもはらでもダンキンでもなく、ヤマザキのドーナツ(4個入り130円)だ。かれは空腹だった。糖分を欲していた。卒業論文を書くため、ない頭を絞り尽くしていたのだ。だからかれは全て食べ尽くすつもりだった、すなわち、一駅歩いている間に4つのドーナツを食べる試みだ。

パッケージを開け、満を持してかれはドーナツを口に運ぶ。甘い!糖蜜の染み込んだやわらかなそれは歯に微かな抵抗を示しつつも、あっけなく口の中でほどけてゆく。疲れた体に糖蜜が染み渡り、かれ自身がドーナツとなる。一つ目のドーナツ、そして二つ目のドーナツは、20メートルも歩かないうちに消えた、儚く、泡沫のように…

かれが三つ目のドーナツを取り出したときのことだった。かれは頬に冷たいものを感じた。そこはかとなく嫌な予感がした。風が強くなる。案の定、ぽつぽつと雨が降りだした。かれは多少の雨ならそのまま歩くことで有名なので、しばらくは雨にそっぽを向いて三つ目のドーナツとむつみ合っていた。しかし、外套に刻まれるドットの模様が明らかな量を示したとき、かれはため息をつき、食べかけのドーナツを袋に入れてリュックにしまった。かわりにかれは折りたたみ傘をとりだした、これ以上は濡れたくなかったのだ。

ところが、傘をさしたとたんに雨は止んだのだ。かれは怒りに震えた。おれはドーナツを食うためにわざわざ歩いていた、しかし、雨ゆえにドーナツをしまった、とたんに雨がやんだ。これはマーフィーの法則か?違う、天がおれにドーナツを食うなと言っているのだ!かれの頬は濡れた、傘の中で、熱いもので濡れた、もう雨はとうに止んでいるというのに……