尊厳に死す

 

わたしの通っている病院はビル内にテナントとして収まってるんだけども、それに並ぶ形で薬局が入っています。五歩あれば着くような、ほんとに真横。そんで、その病院と薬局との五歩分のスペースの壁に、薬局の看板がかかっています。さらに、その看板の真下に薄型のテレビが設置されています。このテレビは、ひたすら薬局の名前と矢印を表示して、患者を誘導しています。これだけの情報、べつに看板でも事足りますよね。わざわざデジタルにする必要ある?というかんじですよね。

じゃあデジタルである必要性がどこにあるのかというと、実はこれ、背景が変わっていくんです。

 

 

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以上です。

 

 

いらね~~~。尚更いらねえ。そもそも、五歩も下がって俯瞰して見れば真横に薬局があることなんて一目瞭然の立地ですよ。方向の指示すら必要かというレベルなのに、ましてやテレビを設置する必要。その上でのこの無駄さ。しかもその変わってく背景もフリー素材みたいなそれ以前に文字もワードアートみたいな、チープで陳腐でしょうもないかんじですよ。いらねえ。無駄。お金のつかい道にこまっているんですか?

 

わたしは毎度これを見る度に、この  いらねえだろ!という思いと、あとやるせなさに襲われるのです。それは看板持ちのバイトをしているひとを見たときのようなやるせなさです。

 

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看板持ちのバイト


あれは立て看を置いとくだけだと道交法に引っ掛かるからという理由で存在する仕事らしいですね。つまりお察しの通り、根本的にはあそこに人間は必要ないんです。やるせない…。でも逆に言えば、法律という理由があるんですよね、これには。その点それすらもない、ほんとうに意味の無い、あの薄型テレビのかなしみよ。わたしは造花の気持ちを想像するなどよく無機物に感情移入しがちな腐れメルヘン脳なので、あのテレビが不憫でならないのだ。

 

フィクションですが、ロボット工学三原則というのがあります。アシモフさんがSF作品中で示した、ロボットが守るべきみっつの原則。

 

  1. 第一条
    ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  2. 第二条
    ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
  3. 第三条
    ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版、『われはロボット』より[1](ロボット工学三原則 - Wikipedia)

 

これらは、高度な判断能力を有する人工知能にのみ適用される、という設定だそうだ。そしたらたとえば、ハイスペックなアンドロイドが人間との関わりかたや課せられた職務に葛藤して~みたいなドラマチックなことは想像しやすい。でも、そこまでのレベルには達しないものの自我に近いものを持った機械が登場するとすれば、それは場合によってはほんとうに地獄だろうな。ドラマチックではない地獄。人間と同じだ。あのテレビがそうだったら。テレビとしての自我と矜持をもつ自分が、あんなしょうもない映像 (映像?)を一日中垂れ流すことしか許されなかったら。自分ならたぶん、爆発して死にたいと思う。

そしてそれは、そのまま自分自身の尊厳の観念にスライドされるのだろう。年々、そういう傾向が強くなっていく。心にいるパンクスの人数が増えていく。こんな世の中なのに。それが間違いとは断固として思わないが、生きづらさには拍車がかかっていく。解脱したい。はやくわたしをサンゴ礁にしてください。