思考こねこね

 

人として生きる上での軸みたいなものを、わたしは哲学だったり信念だったり倫理観だったり、そういう自分の内的な、精神的なものにおいている。でもそれは当たり前ではない。外的なものが軸となる場合だって当然ある。それは家族かもしれない。推しかもしれない。人ではなく、仕事や趣味かもしれない。

幼い頃の自分はどうだったか?生来内向的な人間であったと自負している、しかし、今までの人生すべての期間で、今ぐらい内的なことを考えあぐね続けてきたわけではないはずだ。ぽよぽよの幼児だった頃、人生に思いを巡らせていたか?そんなはずはない。歳を重ねるなかで変わっているのだ。その変化はグラデーションかもしれないし、もしかしたらスイッチ的に鮮やかに、重きを置くものが突如変わる日が来るかもしれない。また、それはこれから先の人生においても変わらない。

哲学や倫理、それらは善悪でわけると善性のものたちとして捉えているし、だからこそブレてはいけないと思っているのだろう。「内的なもの/善性=揺るがない核」だと思いこんでいる(そうであらねばならぬと自分に課している節もある)ため、それがブレることを過剰に恐れるし、そこから逸脱する自分を否定する。そこへきてガチガチのゼロ百思考のため、それが絶望なり死にたさに直結してしまう。しかし違う、人生において軸となるものは変わりうる。人によっては当たり前と思うかもしれないことだが、それを芯を食って理解することが、まず自分には必要なのだろう。

また、善性が不変であると信じるのは恐ろしいことでもある。いまの時代や自分が想像しえないような、画期的でリベラルな新たな価値観が登場したときに、自分の核と思いこんでいるものに縛られて受け入れることを拒むことはありはしないか?アップデートしてるつもりで偏った思想を摂取して、よし更に強固な倫理観を手にいれたぞ、ぶれないぞ、これが正しいのだから…と信じこむことはないか?それらは十二分にありうることだ、インターネットを見渡せばサンプルは掃いて捨てるほどいる。精神世界を重んじることが悪というわけではない、ただ、そういう在りかたでいる間は特に広い視野を持ち続ける意識が必要だろう。自分が正しいなんておこがましいことはゆめゆめ思ってはならない。

 

わざわざこういうこと言語化する必要のない人間になりたい。めんどくせえなお前は!!しかし過剰に思考することが、悲しいかな自分を構成する大きな要素である。それをやめることができたらと思うが、それはすなわちアイデンティティの喪失か?アイデンティティというものもよくわからん。それも可変なのでは?何をもってして自分だ?こないだバイト中に楽になろうとして、「これを苦手だと思い込む自分自身すらも自分自身が作り上げた虚像」と思いこんでみることをしたら、じゃあまじでお前は誰なんだ?となってしまい失敗した。それがめんどくせえつうんだよ。嫌だわそんなこと考えながら接客してくる店員。ハ~難儀だねえ難儀難儀、もう何も考えたくないんよ、うわ堂々巡りじゃん、はいもうおしまいねかわいいもののことだけ考えようね~ハッピーハッピー

 

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ブルーナのいぬ、かわいいね~