さらにダウナーな記

 

朝と夜の境がなくなっている、人と会っていないしいまは会いたくもない、非常に不健康だ。ひさびさに朝食を取ろうとしたが、喉を通らなかった。快活な一日と引き換えに、サテンステッチが少し上手くなった。今日はほんとは、折坂悠太が名古屋に来ていたんだ、ライブで。見に行きたかったけど来月もいくし、ほかにもお金を使うので我慢した。来月は人とご飯にいったり遊んだりする予定がたくさんある。わたしは人をなかなか誘わない、全部みんなが誘ってくれた。ほんとうにありがとう、みんな大好き。でも意味わかんないな?みんな楽しいかな。たいがい、わたしといて楽しいかな、楽しませられてるかな、ということを考えてしまう。ニコニコ談笑してても、片隅にはそういう意識がいる。きっと気遣いなんかじゃなくて、相手のことを信用していないということだ。人を好きになりたい。みんな大好きなんだけど。何て言えばいいんだろう、もっと根本的な部分で。

 

24時間テレビがやっている。わたしはこれがどうしても苦手だ。感動の同調圧力みたいなものが気色悪くてかなわない。出演しているそれぞれの人は素晴らしいんだろうし、視聴者がなにかに気づくきっかけになったり、多くの人が募金をしたり、そういうことはとてもよいと思っている。ただ、それが一過性のものでなければいいのにと思う。そのひとたちの人生はわたしたちのコンテンツではない。

 

募金。以前に駅前で、募金を求める人に捕まったことがある。よい子だったわたしはふんふんと話を聞き、じゃあ協力しますと小銭を出したところ、「ごめんなさいクレカじゃないとできないんですよね、持ってますか?持ってない?じゃあ作りましょう」みたいな笑っちゃうような展開になったので、すべてを察したわたしは即刻財布をしまい、やっぱりやめますすいませんと、その場をあとにしようとしたわけだ。募金詐欺なんてものの存在を知らなかった当時のわたしは、めちゃめちゃに怒った。人の良心で食う飯は旨いか?恥を知れ。その上、わたしを引き留めることに失敗したそいつは最後に、「またお願いします!あっ、お姉さんめっちゃ綺麗ですね!w」とぬかしやがったのだ。そんな言葉は使うもんじゃないと思うが、その時ばかりは心底死ねと思った。どこまで人をコケにすれば気が済むんだ?「は?」と言うだけでその場を去ったが、その腐った横断幕を引きちぎって燃やしてやればよかった。それ以来、駅前の募金活動を見るたびにその時のことを思いだしては腸が煮えくり返る。なのでわたしは、寄付する先は自分で選んできめようと思った。

 

犬の散歩に行く。夕焼けがとても綺麗だった。赤い空に、ピンクのような紫のような雲。なんとなく、生きるってこれかーとおもった。犬はどのルートにも行きたがらないくせに、家に帰るのも嫌がった。また、フンをしようと踏ん張っているときに小さい段差から足を踏み外して、その姿が情けなくて滑稽で悲しくてかわいかった。わたしはBluetoothのイヤホンが接続できずに、あきらめて無音で歩いた。ふと、盗みをする人は生きたいんだなあと思った。付近を一周して帰ってくると空は黄色に、雲は灰色に変わっていた。

 

また夜になった。ブログを書く。書いた記事がいつのまにやら150を越えていた。モチベーションだったものが惰性に変わりつつある。不毛だ。読者登録してくれている人もいつのまにやら190人にも達していた。物好きな人たちがたくさんいるもんだなあ。物好きな人は好きです。ありがとう。